好きになればなるほど迷い見えないコト

大切なのは「ホントの自分」に目を向けるコト

 

二人の間に時間的・物理的(心理的にも)にスペースがないと相手がよくみえなくなるコトがある。。。 近すぎると、目の前にある部分はよく見えるケド、相手の全体像が見えなくなるコトが生じてしまう。

そして、見えてる一部分で相手を判断し、批判したりしてしまう。。。
すると相手に、「そんな細かいコトで自分の行動を非難したり、愛情をうたがったりしてほしくない。」と思わせてまう。

沖縄にこんな言葉がある。「ケラマミーシガ、マチゲミーラン」慶良間とは沖縄本島の近くにある島々のコト。 「慶良間の島々は見えても、自分のまつ毛は見えない。」というコトで、つまり「遠くにいる人のコトはよく分かっても、一番近くにいる自分のコトは分かってない。」という意味に使われている言葉なのです。

同じ近づくのなら、自分の“マチゲ”(まつ毛)が見えるように、自分の心に近づいたほうがいい。
そうすると、ある距離をおいたところから、“慶良間”(愛する人)が見えて、その美しさも再発見できるのではないだろうか。

 

相手の「分からない部分」まで信じられれば本物

 

どんな方法を用いたとしても、「相手のすべてを知り、理解しあう」コトはできない。
精神医学者の土居健郎氏は、「どんなに分かっても、必ず分からないところが残る」と述べている。 その理由は、個人の認識能力に限界があるからというだけでなく、人間全体がそういう限界を持っているということなのだ。

土居氏が指摘しているように、“分かる”コトが増えるにしたがい、“分からないコト”も増えてくる。ある段階の“分かる”レベルに達すると、別の“分からない”何かが出てくる。

したがって、人間には人のすべてが“分かる”などというコトは、あり得ない。
とすれば、人間にとって大切なのは、「分からないものがあるということを“分かる”コト」ではないだろうか。。。

人間は分からないコトがあって当然と考えるほうが賢いし、また謙虚になれる。
よく分かってもないのに、分かったふりして断定的判断したり、相手を非難したりといった、傲慢・非礼な人もいるケド、そういった落とし穴にはまらないですむ。

ぢゃ、具体的にどうすればいいのか? “分からない”コトと、“分かり得ること”とを区別し、“分かったほうがよいコト”と、”分からなくてもよいコト”を分けて考えてみたらどうだろう。。。

相手を分かろうと努力するコトは大切だけど、相手のコトが“分からない”からといって、いつも不満に思い、不安にとらわれているのって無駄な時間やエネルギーを使うばかりぢゃなく、精神衛生的にも健康とは思えない。

どんなに分かろうとしても、“分からないコト”は残る。私達がするべきコトは、“分かっている部分”と“分からない部分”の両方を持つ相手自身を信じるコト。
相手を“信じる”コトが、相手を“愛する”というコトなのです!

サイコセラピストの近藤裕氏は、「愛し合うコトは、理解しあうコト。理解するコトは、相手の心を受け入れるコト。受け入れるとは、許しあうコト。そして、理解できないコトがあっても、互いに信じあうことだ。」という言葉を結婚するカップルに贈るそうです。
“愛する”とは、愛する人を“信じる”コトなのです!

 

人は「愛しているよ」という恋人の言葉を信じて、

相手を愛するのではない。愛するゆえに、

その人の言葉を信じるのである。