恋した時、こんな自分に気づくはず

恋と愛は別物です。 例えて言うなら恋とは、おいしいものを食べた時、「ああ、もしも彼(彼女)がこの場に一緒にいてくれたらいいのに」と思うコト。 一方、愛だったら、その場合「彼(彼女)のためにお土産にしてもらって持って帰ろう」と思うコト。

心理学者の佐藤悦子氏は、『愛が終わる理由』という著書の中で、恋と愛について次のような区別の仕方をしている。 上手い比喩だと思う。

「つまり、恋する人は、相手がココにいて欲しいと思う時にいないと、強烈な欠乏感を感じて、相手の存在を乞い、焦がれる。 そのために真に楽しむコトができません。 一方、愛する人は、自分ひとりでも自分のために時間をエンジョイできますが、それは家に帰れば愛する相手と過去の時間に感じたことを共有できるとわかっているから。 個としての営みと、カップルの営みの両方を安定して持っている状態です。」 見事な表現である。

これを読んで、私がレストランで一人おいしいものを食べた時、どうするかな?と考えてみよう。 デートをする相手がいる人が、一人でおいしいものを食べた時、「こんなおいしいものを、こんな素敵な雰囲気で彼(彼女)と一緒にたべられたら最高だ」と思ったとしたら、そう思うと一人で食事をしているコトがじつに侘しく、せっかくのおいしい料理も心から楽しめなくなりその夜、彼(彼女)に電話で「一緒にいないのが寂しい」と伝えるでしょう。 これが、佐藤氏のいう”恋”心なのだろう。

 

恋は自然発生するが、愛は後天的なもの

 

先に紹介した佐藤悦子氏は、「恋は愛の燃料だ」と言っている。 相手に憧れ、相手を求める恋心があることによって、愛は続くというのである。 でも、時を経て、お互いに馴れ合いの関係になってくると、はじめの頃の恋心が冷めるコトがある。
それは、”愛する技能”を怠ったため、“恋”が“愛”にならなかったからだ。

“恋”が“愛”の燃料になるためには、変化が必要だ。 炭に点火すると熱が生じる。 その熱は、やがて人にぬくもりを与えたり、食べ物を料理するエネルギーとなる。 これは、恋心がやがて生産的な“愛”というエネルギーに変身するのと似ている。
この変化があってはじめて、愛の関係は続くのだ。 恋人時代の恋が、その変身を遂げずに終わるコトもあれば、愛の関係に変化するコトもある。 すべての恋心が愛に変身するとは限らない。

どこでその違いが出るのだろう。 それは双方に、“愛する能力”があるかどうか、共同の営みを通して、“愛する能力”を育てる意思があるかどうか、その努力をしているのかどうかによって決まるのだと思う。 しかし、そのコトに気づいてない人が多い。 「愛さえあれば」という言葉をよく耳にするけれど、本当に大切な「どのように愛し合うか」ということを考えている人は少ないのである。