愛する「学習」はピアノのレッスンをするように

 
“愛”は育てるもの。それを忘れてはいけない。育てなければ、えられないものなのである。
もっと正確に言えば、“愛される愛”でなく“愛する愛”は、学習しながら育てていくものなのだ。アメリカの社会心理学者であるE・フロムは、「愛する能力は芸術と同じで、学習しなければ得られない技能である」と言っている。フロムの名著「The Art of Loving」直訳すると、「愛の芸術」の邦訳本文の中にある一部を紹介しよう。

「恋に落ちた二人は、お互いに夢中になった状態、頭に血がのぼった状態を愛の強さの証拠だと思い込む。だが、じつはそれは、それまで二人が孤独であったかを示しているにすぎないかもしれないのだ」 このフロムの考え方からすると、寂しい心を慰めてくれる相手が恋人となる。その恋人に、自分の寂しさを取り除いてくれる何かがある。それを求めているだけであって、その何かを持っている相手自身を求めているのではないかもしれない。。。「私に欠けたものを満たしてくれる」相手であるかぎり、誰でもいいのかもしれない。これは精神医学で言う「愛着(カセクス)」という現象である。それに人は“恋”という名前をつけているわけである。

フロムは、さらにこう述べている。「大きな希望とともに始まりながら、決まって失敗に終わる活動や事業など、愛のほかに見当たらない。もし、これがほかの活動なら、人は失敗の原因をぜひとも知りたいだろうし、どうすればうまくいくかを知りたがるだろう。さもなくば、いっさいの活動をやめてしまうだろう。愛することをやめてしまうことが出来ない以上、愛の失敗を克服する方法はひとつしかない。失敗の原因を調べ、そこからすすんで愛の意味を学ぶことだ」フロムは厳しい。「愛ほど決まって失敗に終わるものはほかにない」と言う。それは、フロムが著書で解説しているように「愛する技術」を身につけないから失敗するということなのである。

再び引用してみよう。「愛の意味を学ぶことの・・・・・第一段階は、生きることが技術であるのとまったく同じように、愛が技術であると知ることである。もし、我々がいかに愛するかを学ぼうと思うならば他の技術、たとえば音楽や絵画や建築の技術、・・・・・のような他の技術を学ぼうと思うときに、我々がまずしなければならないのと同じような仕方で学びはじめなければならないのである」とフロムは述べている。どんなものでも“技術”を磨けば“能力”も高まる。愛とて例外ではない。

“愛する能力”は音楽の技術に等しいともいう。ここではピアノを弾く技術を例に考えてみよう。ピアノは誰でも叩いて音を出すことができる。子供にもできるが子供は、はじめおもしろがってピアノを叩く。それは、まわりの者にはうるさい雑音にしか聞こえない。でも子供本人は、「ピアノを弾いている」と思っている。それが、レッスンを受け正しい弾き方を学ぶうちに、少しづつ楽譜にしたがって曲を弾けるようになる。上達した人がピアノを弾けば、心地よいメロディとなって私たちの心を慰めたり、幻想の世界へ誘ってくれたりする。ピアノを弾く技術を学んでいるのといないのでは、雲泥の差だ。“愛する能力”もこれと同じである。学習し、技術を身につけたときに、愛し方も成熟する。そのとき愛の関係には、心をなごませる美しいメロディが流れるようになるのである。