男の甘え、女の甘え

 

 愛しているから尽くす。 愛される側は、尽くされることに慣れてしまい平気で相手から、
時間・お金・体力・労働。。。。と奪っていく。。。
「愛は惜しみなく奪う」という言葉があるけれど、本当にそうなのだろうか? 男と女の関係には、いくらきれいごとをいっても奪いあう要素が存在し、それを拭い去ることが出来ない。
特に結婚して共同生活をしている夫婦関係になると、様々な便宜を中心に功利的・利己的な関係になったとしても不思議ではないし、それは責められるべきでもなくて、要はバランスの問題ではないだろうか?

 たしかに愛は、相手から惜しみなく奪う面があり、そういう時があるが自発的にであれ、義務感からであれ“与える人”がいなければ、“奪う人”は存在しない。。。
だからこそ片方だけが奪い続け、片方だけが与え続ける関係は長続きしないのだ。
「与え、得る」というプラスとマイナスのバランスが保たれない関係は、必ずといっていいほどに破綻する。 愛の関係として存続するためには、一方的に奪うのではなく時には与え、時には奪うコトが求められるのであって、与えるコトが出来て初めて奪う資格を得るのではないだろか…
奪うだけなら泥棒と同じ。。。よほどのお人好しででない限り、いくらお金持ちだって泥棒に貢ぎ続けるコトはしないし、それは正常な人間がする行為ではないはず。

 泥棒とは、キツイ表現かも知れない。。。だが、一方的に女性からのサービスを求め、子供のように世話をやかれるコトに満足し甘えてばかりの男性に見切りをつけ、奪われ続けた自分の愚かさに気づいて別れる決心をした女性や、バランスを欠いた性生活に不満を抱き離別を決意する妻たちが増えているのも確かなコトなのだ。。。そして、こういった女性達の不満が分からない男性が多いのも世の中の現状である。。。

 人は、決して道具や手段として扱われるコトを望まない。。。哲学者カントは、「人間は手段としてではなく、目的として扱うコト。それが人間を人格として扱うコトだ。」と言っている。
人を“愛する”というコトは、相手を一人の人格として愛するコトではないだろうか。 自分が主体的に生きるコトを大切にするのと同じように、相手の主体性を尊重するのが“愛”というものではないだろうか。 すなわち“主体性に生きる”とは、自分が手段化されたり、道具かされるコトを拒むということなのだ。

 相手をある目的の為に手段化し利用するというコトは、性生活の面でなく結婚した男女ならば経済面においても良くある話で、それが昨今の浮気や離婚の原因にもなっている。
精根尽き果てるまで働き、稼ぎを妻に渡し続ける夫に甘えただ生活に安住するだけで、夫の心の安らぎや慰めを与えるコトを忘れてしまっている妻も少なくない。。。 また、そんな妻に見切りをつける夫たちも、昨今増えているのである。。。